Rocker and Hooker

ルー・リード(Lou Read)が亡くなってしまった。 全ての生きとし生けるものにとって、生命は永遠ではない。「死」からは逃れられない。そう、かく言う自分もいつかは死ぬ。これを読んでいるあなたも。我々は産まれた時から「死」というゴールに向かって一歩一歩歩き始めているのだ。それは事実として受け止めざるを得ない。

それでもルー・リードの死に際しては、久々に「喪失」の痛みに苛まれた。
半月を過ぎて、ようやく冷静にこんなことを書けるようになってきたのだ。
「書かないと!追悼文!!」、「どんなこと書くのか楽しみ!」、そんなお言葉頂きつつ。。。。いやいや、そいつは厳しい。ムリだよ。だってこの出来事は自分の中では「事象」ではなく「観念」の領域のモノだったから。空が青くって目の前で落ち葉がフッと最後の旅に。。。。何てまとめ方では書けない出来事だった。

泣いて泣いて。。。。いやいや違うね、そんな例えは。
10月27日、日本時間では日曜日の夜更けだったのだろうか。自分がそのニュースを知ることとなったのは、月曜日のお昼前、友人からのメールによってだった。打合せ中だったため、メールの着信の知らせに何となく目をやったのを覚えている。打合せが一段落した時にそのメールを開いて内容を目の当たりにした自分の頭の中が真っ白になってしまったのを思いだす。その後上の空の時間が続き、先方に随分と失礼してしまったような気がする。
ルーの不在を知らぬまま、自分はここ日本で10時間以上も暢気に過ごしていたんだな。その時の状況を思うと、すなわち「不在」に気付かないでいることね、「死」って最終的にはそういうものなのかも。忘れて風化していくもの。きっと生涯出会った大切な想い出を共有した人がもしもうこの世に居なくても、自分がそれを知らない限りその人は自分の想いでの中では「在り」続ける。昔の恋人の現在なんてやっぱり知らない事が多いし。もしかしたらもうこの世に居なかったりして!?!?「不在」を知ったとたんに、「死」が事実として訪れる。その10時間のことは自分にそんなことをイヤという程思い知らせてくれた。

うん、でもね、リードの一件に関してはもう冷静に対処できている。何と言っても圧倒的な作品群が遺されているし。それが語るモノの大きさって、今の幼稚な音楽享受/リスナー・シーンでは今後50年近くにあたる大いなる提議であり続けると思うしね。彼はアーティストっていうよりも彼の人生そのものが「作品」だったんだよ。だから自分達は作品を共有する事で新しいルー・リードとの付き合い方を発見できる気がするんだ。
何だろうな、弔辞を述べねば??「えッ!?俺が!?!?」みたいな状況かな。もちろん自分の価値観、それを共有できる方々への弔辞。それにしても何にも用意してないところでケツを蹴っ飛ばされて本番に臨んだような弔辞の強要だよ、これはさ。。。。


自分の生涯においての最初のルー・リード体験。 1976年のポスト・ビートルズ・エイジ、第二期ブリティッシュ&黒船インベイジョン、そしてパンク到来の1977年に至る。そこにおいて語る事のできたルー・リード。それは当時のポップな音楽誌の最右翼『MUSIC LIFE』の中で端的に語られた、端的にしか語る事の出来なかったキャラクターそのもの?


そう、多くの解りやすいゴシップやイメージを増長させるエピソードがもたらす。ステージ上でのパフォーマンス中のヘロイン注射とか?バイ・セクシャルを明言してのミック・ジャガー(Mick Jagger)やデヴィッド・ボウイ(David Bowie)との仮初めの恋愛草子とか? もうね、子供だった自分にとって当時のリードに感じていたのは嫌悪感そのものだったな。嫌悪の対象そのもの。何で音楽観云々以前にこんな価値観を検証しなきゃいけないんだよ!?って感じ。そりゃそうだ、中学生に解るような安易なカルチャーではなかったのだよ。それを支えるシーン全体も。 1976年の日本の音楽/洋楽ファンってことで言うと、先月の『アビイ・ロード(Abbey Road)』写真展の記述でも個人的なビートルズ(The Beatles)エピソードについて触れさせて頂いた通り、〈第二期ビートル・マニア〉の誕生黎明期っていう意味で重要な時代であったし、クイーン(Queen)、キッス(Kiss)そしてエアロスミス(Aerosmith)がロック新御三家として人気を集め始めていて、女の子達はベイ・シティ・ローラーズ(Bay City Rollers)に夢中でって感じで、もうもの凄く日本のロック・ファンは〈健全〉だったのだ。自分も含めてね。パンクが来なければルー・リードを聴こうなんて思わなかったかもね。

話をルー・リードに戻そう。 本格的に自分が彼の世界観に耽溺し始めたのは10代の終わり頃からだったと思う。最初はね、やっぱりあれだ、「ルー・リードを聴いているとカッコ良い!」っていう若気の至りがきっかけだったかな(苦笑)。でも気付いたら自分にとってなくてはならない存在となった。ポール・ウェラー(Paul Weller)とリードとプリンス(Prince)とジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)が自分のロック/ポップス嗜好性の羅針盤を創ってくれているのだが、その中で人生観にまで影響を与えてくれたのがウェラーとリードだ。
彼のキャリアについて。あんまりマニアックな事を書くつもりは無いのだけれど。
どうしても、あれだね。リードはさ、〈比較文化論〉みたいなところで語られちゃうんだろうね。もちろん〈絶対〉の才能なんだけれど、受け手がさ、自分等も含めた受け手がチャンとしていなかったことによる問題や検証必要事項が山積みで、結果チャンとした結論を導きだせるまでに様々な勝手な憶測、イメージが生まれちゃうっていう。

あぁ、ここで書きたい事は山ほどある。触れたい作品や関係の深かったアーティストの名前も枚挙に暇がない。でも敢えてそこには向かいません。単体の情報や評価ではルー・リードの本質を浮かび上がらせる為には不可能だから。彼は全体をもって作品となり、ルー・リードとなるから。

いわゆる「名曲」っていう賞賛には恵まれなかった方なのだ。哀しいくらい。あのアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)にとってまるで昆虫標本のように、当時的なポップ・アートという新しい刃によって切り裂かれたリードのバンド=ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(Velvet Underground)とその作品、その事実と在り様もまた〈ポップ・アート〉であったわけで。同時にそこから派生したカルチャーはあまりにも多くの悦ばしき使命を以て世界に羽ばたいたわけで。勘違いと誤解を生みながら、ルー・リードは時代の寵児となった。
そしてバンドを離れ、ソロとなってからもさらなる「名作/問題作」を創り続けた。

どの作品が好き?何て愚問も、だからやめておこう。
ルーが提示してくれた無限の世界観、それに対する嗜好は自分の年代や精神のコンディションによって変わってるからね。
じゃあ、訃報に触れた夜、家で何を聴いた?
うん、これは事実として残ることだから書ける。
『ニュー・ヨーク(New York)』でした。
これを書きながら何を聴いている?
これも現実としてあるな。
『ベルリン(Berlin)』です。
その二作品の間で無限のイエスとノーがあって、その中で定点観測を許さずに常に感性のリトマス紙のごとくの選択を迫ってくるルー・リード。


自分の感性に強い光を当てたとき、そこに陰になる部分があったとする。その陰、そうルー・リードは自分の感性の「陰」の部分の絶対的な支配者なのだ。これからも永遠に。

意外なもので50歳を過ぎたあたりから、漠然とした死への恐怖心がかえって薄まっていっている気がする。生命の終焉に向けて一歩一歩ってのが実感としてあまり無い。若い頃より圧倒的に死に近いところに立っているにも関わらず。
日々を大切に生きているのだが、妙な生への執着は渺々とした日常の中でどんどん漂白されていく。自分の生活において子供の成長とかを目の当たりにしているからかな。今、自分の人生のカレンダーの舵を握っているのは娘や息子の日々の出来事である気がする。自分に無関心になっているのかな?いや、まだまだやりたい事や夢はあるからなぁ。。。。


そんなことを考えていた自分に訪れたのがポール・マッカトニー(Paul McCartney)の来日公演!いやいや、リードの喪失に悲嘆する日々や、ぼんやりと眺めていた日常を鮮烈な色彩で染め上げてくれた!
「生きる」ことと「生き続ける」ことの意味と意義をおそらく音楽シーン、ポップ・カルチャー・シーンで今現在最も痛切に感じているはずのマッカ。しかしてステージの上の彼の姿も音楽も、〈生命への謳歌〉で満ち溢れていた。
そうか「どう死ぬか」を考える前に、自分はまだまだ「どう生きるか」を考え追求すべきなのだ。
今、部屋の中で、リードの死を以て一層美しく輝き響き始めた『ベルリン』に感動している自分は間違いなく此岸にいるのだ。生きているのだ。

明日もまた新しい音楽の感動を求めて、良い書籍や映画や美術作品との出逢いを求めて、そして新しい人との出逢いを求めて、自分は生きて行く。生きているからルー・リードの不在を悲しむことができる。「追悼」や「哀悼」とは全ての生きとし生けるもののみに与えられた特権でもある。「死」から逃れられないこと以前に。
ありがとうマッカ、そして本当に本当にありがとうルー・リード。
でもやっぱり寂しいよ、ルー。。。。


偶然なんだけれど、ルー・リードは1942年3月2日生まれ、ポール・マッカトニーは同年6月18日生まれ。そうか海外の学校学期タームでいえば二人は海を挟んで同級生だったんだ。


「生きている」ことは素晴らしい。ありがたい。そして何ものにも代え難い。





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