Rocker and Hooker

2014年。 既にこのマガジンの中の記事でご確認済かもしれませんが、ROCKER AND HOOKERは大きな転換期を迎えます。 本年3月をもって店長兼デザイナーの中野恵介がお店を離れ、地元北海道へ帰郷。新規事業に自分なりにチャレンジという決心のご報告。これについてはこの原稿内では触れません。今後、中野から皆様へのご挨拶があるはず。 新展開っていうのはね、既に4月以降のプランが明確って言う意味。中野からの良いパスを受けながら、隣接のunikkの店長兼デザイナー金井の意志を強く反映した最強の新展開!こちら、是非ともご期待下さい。早く発表したくてウズウズですよ。

そんな風に、もう2014年はROCKER AND HOOKER、unikkそしてAmrita Custom Guitars、さらにはいっつもイベントでコラボするSOCIAL TOKYO Galleryまで含めて、改めて渋谷に登場した新区画〜Tokyo Quadro Marketとしてのプレゼンテーションを頻繁に行っていきますよ。この4つのディヴィジョン、常に歩みの速度とベクトルを同じくして進んで参ります。どうか皆様、どちらかのディヴィジョンに足を運んで頂いた際はROCKER AND HOOKERのみならず、ゆったりとこの区画ををお楽しみ下さい。一日遊べる空間をご提案して参ります!

さてさて、このTokyo Quadro Market。ROCKER AND HOOKERのオーナー氏のイメージをコアに拡散していっている部分が大きいんですが、私にとってはあるイメージがあって、そこを座標軸として意識しながら展開している趣がございます。私の「街」としての文化的な、とりわけ大衆文化的な価値観を決定付けたモノ、常に規範としてあるコンセプト。それは1980年代の西武百貨店とそれをとりまくセゾン・グループの文化施設や店舗などなのです。


以前にもチョコッと書いたことがあるかもしれません。私の人生のファースト・キャリアは西武百貨店でした。1986年のことです。時代はバブル景気のまっただ中。ビジネスの根幹にある姿勢はとにかく「攻め攻め!」だった想い出があります。反省する暇があったら次のところに向かえ!みたいな。今の日本の企業姿勢を思うとチョッと信じられないでしょ、若い世代には。
そんなバブル経済の恩恵を受けたパーソナルな想い出は皆無なんですが、うん、私もその市場の中で大学卒業後の最初の社会人生活を始めた訳です。

自分が配属されたのは「商品部」ってとこ。サンシャイン60の50階にありました。その当時は確かサンシャインの48〜51階が西武の本部が入っていたんじゃないかなぁ?商品部っていうのは店舗の店頭計画、品揃え計画、そもそもの取り組み先峻別の仕入れ計画を行う百貨店における重要かつ花形部署。そこに新卒社員が配属されるっていうのは本当にレアなケースだったらしい。自分は「音・映像・電器部」に配属。同じく商品部に配属組だった新卒組が二人いて、そのうち一人は美術部、もう一人は衣料品のデザイン計画みたいなところへ配属されました。余談かつ時効だが、美術部に配属の女のコは一時期はかなり親しいガール・フレンドであって、衣料品に配属された男前は自分の今の家内(大手アパレルから西武に転職してきたのだ)を私に紹介してくれたヤツっていう、何だか不思議な運命模様だったなぁ(笑)。


店舗の仕入れ計画、すなわち「バイヤー」ってのが商品部の主な業務なんですよ。経験豊富な手練が務める花形業務って言ったでしょ(笑)。当然、新人の自分、勤まる訳も無く(苦笑)。店頭に鎮座するベテラン販売担当といきなり丁々発止できるわけないじゃん!ドラマみたいなイヂメにあいましたよ、そっち方面では(苦笑×2)。自分が部門で重宝された仕事は、企画書作りの鉄砲玉みたいな役割だったような気がします。当時の西武のムードは新規事業だ、新店開発だといった、自分で言うのもなんだが「虚業(良い意味でね!)」の極みの時期だったと思う。そんな中で自分は斬新な「企画」ではなく「企画書」を求められたっていう、まぁ、使い捨てに近い役割だったのかなぁ。徒花のような。当時はまだ「新人類」だとか「ピーター・パン・シンドローム」なんて言葉が跋扈していた時代。そう「ニュー・アカデミズム=ニュー・アカ」なんて文化概念が知的少年少女の憧れだったのだ。自分のような異端で変わり者の若造の発想をヴェテラン・セクションに置いてみようって、いかにも!な人事計画だったんだろうなぁ(苦笑)。。。。



じゃあ企画で頑張ってやろうじゃないか!と奮起する自分の前に、そびえる大きな山が在りました。キッレキレの先輩達が本当にたくさん跋扈していた当時の西武。本当にキレていた。企画の切れ味が。視点が。やばいやばい、このままじゃあかなわんぞ!って焦る日々の連続でしたね。「おいしい生活(当時、超有名だった西武のコピー。ウディ・アレンがポスターのモデル!)」以前か以降の入社かってのも、当時よく冗談でイヂメられたボーダー・ライン。要するに、文化的な旗艦となった西武を創り上げたスタッフか、それに憧れて入社して来たスタッフか、みたいなリトマス紙だ(苦笑)。むろん自分は「以降」組。もうコンプレックスと反逆的学習欲求に満ち溢れていたなぁ。。。。


入社して、商品部に配属されて出逢った最初の大きなプロジェクト。バブル当時らしい企画で西武百貨店全店を挙げての毎年の期間限定「海外展」企画は勇壮だったなぁ。自分が入社した時は「イタリア展」。つまり各売り場、セクションが本部のバックアップで「イタリア」的なモノを全店で大訴求するのだ。で、実はそのためにガッポリ買い付けられているガラクタと紙一重のモノもあった雑貨、オーディオ/家電製品群を倉庫で見た時はビックリした。これが売れるんだ!この値段で!?凄いな、西武。。。。もちろん売れませんでした(苦笑)。その後の棚卸しの度にその商品が劣化して行く様を見るにあたり、ある意味で虚妄の現実に向き合って行った最初期の日々でもありましたね。
その翌年は「英国展」だったかな。自分のセクションのミッションは『ビートルズ展』!これは嬉しかったし楽しかったな、今、思うと企画主体を担っていた会社には「??」の方も多かったのだが、日本にビートルズを紹介した重要な方の一人=星加ルミ子さんがトークショーにいらっしゃったり、うん、何だか何をやったのかよく覚えてないし、たいした貢献も出来てなかったんだろうけど、とにかく楽しかった。若気の至りで何かやった気にもなっていたし。

そして商品部の仕事には新店準備仕事も沢山ありました。
渋谷のLoFtに始まり、川崎のLoFt、梅田のLoFt、池袋のWAVE館なんてのもあって。良い経験をさせてもらいました。勉強も挫折ももちろん並走でしたが。で、最後の新店準備室であった池袋LoFtの時に遂に自分はお世話になった商品部を離れ、池袋LoFtのイベント・スペースであるLoFt FORUMへの転籍を希望したのだった。


ちなみに各店舗で自分が携わったり、デザイン企画したりしていた売り場、スペース、今は何一つ残っていません(苦笑)。自分が信じた「ムダの美学」は排除されたのだね。

一連の派手な国際展や新店企画、やっている、進行している才能あるスタッフには煮詰めた企画の集大成だったんだろうけれど、まだ客観的な視点で参加しちゃっていた新人の自分には「文化」という巨大なバケツを妄想して、「形態」ありきでの一方的なプレゼン合戦をしているっていうふうにしか見えなかった(失礼!)。
それでも、それこそが「未踏の分野に足跡を残す」西武カルチャーの中で、根幹的なカルチャー提案と並行して存在していた美しき「ムダ」の文化だったのだと思う。そう、「ムダの美学」礼賛が終わった時に自分が愛した西武らしさも終わったのだよ、きっと。

そうして商品部時代の自分の4年は過ぎて行ったのだが、本来自分が入社時に配属されたかったのはWAVE事業部だったのだ。たまたまそのWAVEを睥睨して仕事をしているような、妙に偉そうで居心地の悪い部署に配属されてしまっていたというのが実際。
まぁ、でも結果、もっともっといろんな世界に触れる事はできたのだな。それ故、幸福な事に(今思うとね)自分の西武百貨店でのキャリアのスタートは「冒険と発見」に満ち満ちたものとなったのだ。

自分の文化体験の背骨となた西武百貨店の文化事業についてのお話をして行かねばね。これが今回、次回のお話の主旨であるのだ。Tokyo Quadro Marketが夢見る美しい幻を具現化するっていう。
まずは、あれだ。もちろん六本木WAVEのことだね。

WAVE、と言ってもピン!と来るのは30歳以上の音楽ファンかね。しかもカッコ良いWAVEを想起できるのはおそらく45歳以上の音楽/サブカル・ファンだと思う。当時、西武百貨店の系列グループであった、そのカッコ良いWAVEの説明をしますね。

1983年に開店。今の六本木ヒルズのある場所、地下鉄六本木駅に降りて行くエスカレーターがあるあたり、六本木通りに面したところにありました。とにかく既存のレコード(まだCDではない)・ショップの常識を完全に覆し、一つの文化共同体として世の中にカウンター・カルチャーを発信し続けたもの凄いスポットであった。ここから発信されればモーツアルトもカウンター・カルチャーとなるってくらい。
記号映像を使用したモニターの装飾配置、エントランスで展開されるイチ推し新譜の瀟洒なプレゼンテーション。あッ!ちなみに当時このスペースの企画/装飾を担当していた先輩がROCKER AND HOOKERのお店の前のサイン・ボックスを作ってくれてますよ!
閑話休題、当時、そのスペースで大々的に展開されていた立花ハジメ氏の作品『Taiyo Sun』を見た時にはたまげたものでした。


立花ハジメ。
海外でも大きな評価を得たニュー・ウェーヴ・バンド=プラスティックスでの活動からソロへ、時代の寵児であったY.M.Oの近辺で活動しながら、グラフィック・デザイナーとしてもいち早くコンピューター・グラフィックスを駆使、自らのジャケットのアート・ワークとして次々と斬新なデザインを提案する。そんな世の中の本当に鋭角的な感性の一部の方にのみ理解され、指示されていたアンチ・ポピュラーのアーティストを店舗の最も目立つフロントで3階までの高さのある天井いっぱいに装飾展開していたのだ。誤解を恐れず書いてみると、今で言うなら、オープンしたばかりの代官山蔦屋書店の旧山手通り沿いのウィンドウが二棟、一〜二階とも奇才のシンガー・ソング・ライター=長澤知之の写真で全て飾られていたとしたらどうする!?!?っていうくらいの文化的衝撃だ。まさにカウンター・カルチャーを地でいくっていう感じ。本当にショックを受けたものであった。
店舗のエントランスの左手から地下に降りるとシネ・ヴィヴァンというミニ・シアターがあって。アート系の名画座では池袋の文芸座ル・ピリエ、そして新作系でも神保町の岩波ホールなんかもあったが、ここWAVEの地下に登場した映画館はとにかくそのセレクションが抜群だった。「感性と知力の全てをもって自分を彼岸体験にさらす!」みたいな作品のオン・パレード。まさに修行である。

そして店舗の上層階には池袋西武にあった美術/サブカル書籍ショップのアール・ヴィヴァンのミニチュア・ショップだったのかな、10坪程の本屋さんもあって。もうここで紹介されているものには本当に耽溺した。所謂メイン・カルチャーとしての文学に慣れ親しんでいた読書青年に突然突きつけられた数々の異端の書物達。メモして(当時は簡単に書籍を替える程に経済的な余裕は無かった)全部リスト化して、いつかは入手するぞ!って一冊一冊ツブしていったのも良い想い出。
店舗関連ではないのだが、WAVEにはレーヴェル事業もあって。リリースしているのはアインシュチュルツェンデ・ノイバウテン(Einstürzende Neubauten)やレイン・パレード(Rain Parade)、デア・プラン (Der Plan)にザ・レジデンツ (The Residents)なんて、ノイズからコア・サイケまでの強烈/痛快なワケワカのラインナップ。雑誌『WAVE』の強烈な唯我独尊ぶりと相成って、もうこれは「美学」の範疇以外では語り様のない世界観であった。


とにかくカッコ良かったな、最初の5年くらいのWAVE。店舗の中ですれ違った文化人、ミュージシャン、アーティスト、数知れず。ある日の事、店舗入ってすぐ左手の階段(何故かその向かいのエスカレーターを使わなかったんだな)を上がりかけた自分がすれ違ったのはおそらく当時20歳くらいのキョンキョン。目も眩む可愛さ。。。。


またまた閑話休題!
WAVEがサブ・カルチャーの地図にその軸足を置きながらも、当時の最もカッコ良いスポットの一つとなったという偉業はまさに80年代ならではのことだな。今じゃあ、難しいだろうね。送り手も受け手も、アンテナの周波数が細分化されすぎてるからね。何がカウンターか何が王道かってのが見えにくい時代だ。
大学4年生、卒業してからも音楽方面でフリーで、なんて考えて仲間達と悪巧みを画策していた自分だが、家の事情で就職をせねばならず、急遽大学研究室(自分は理系経営工学科、まぁ言うならば数学科であった)の紹介で夏前に斡旋物件を模索。いわゆる学部推薦ね。もちろん多くはコンピューター系の企業がメイン。当然そんな面倒くさいところに行きたくない自分が見つけたのが西武百貨店からの求人だった。WAVEが西武系列であった事は有名な話であったので、もう自分は「ここだ!」って(笑)。ここなら自分が馴染めそうだなぁって、学生気分満載の就職志願。
上手い事ギリギリで入社に漕ぎ着けた自分、で、前記したように晴れて配属されたのは西武百貨店本部商品部だったのですよ。

悔しかったなぁ。。。。商品部っちゃあ花形部署じゃん!なんて言われても、もう自分は六本木WAVEで働く事しか考えてなかったからね、全くときめかない。でも、ほどなくして企画屋稼業をしながら、意外に自分の配属された部署はWAVEに近いところにあるぞって気付いて。自分の入社が1986年、オープンから3年経っていた六本木WAVEから商品部に異動して来ている先輩スタッフも多かった。共同開発している商品も多かったし。まぁ、自分は六本木WAVEの企画やソフトの部分で仕事をしたかったんで、それでもフラストレーションは高まる一方だったのです。
そうそう!だからWAVEへのお使い、すなわちモノを届けたり、モノを受け取ったりなんていう仕事はもう積極的に挙手して引き受けた(笑)。新入りだから、当然お使い仕事もまわってくるので。これはラッキーだったな。何故ってそこで出逢う方々がその後の自分の文化耽溺人生にとって本当に大きな影響を与えてくれることが多かったので。20代で最も大切な方々に出会ったスポットのトップ3に入るね、やっぱり六本木WAVEは。
うん、一方で「社会の在り様」の勉強をし始めるのもこの頃だった。自分の所属した商品部における仕事の意味と達成感、頻繁に訪れた六本木WAVEの内部を除いた時にみえた確執などなど、夢とロマンと趣味性だけで世の中成り立つわけないだろうよ!ってことを叩き込まれた時期でもあった。

六本木WAVEに行くのが嬉しくってしょうがなかった若造の時期、西武百貨店本部のあったサンシャインの最寄り駅の東池袋から有楽町線で有楽町駅まで、地下鉄構内を移動して日比谷線の日比谷駅から六本木へ。もう本当に何度も何度も行き来した経路は忘れられない。今でも有楽町/日比谷の地下鉄構内を歩くと想い出すよ、そのワクワクな時代を。バカだね、俺。そんな小僧仕事をしながら、御用仕事のような企画書を何通も毎日書きながら、最先端文化の一端にいるような錯覚をしていたんだね、その頃は。実際、入社2年くらいまでは人に誇れるような仕事はほとんど遺せてないし。
それでもWAVEで見た事、体験した事はその後の西武百貨店の中で成長したであろう自分の大きな礎になったのです。

忘れられない、六本木WAVEの現場で見たエピソードをいくつか。

WAVE本部から送り込まれた本部制作の新作レコードの特大ポップを、ロック・フロアのエスカレーター前のスペースに置いていたら、「誰がこんなジャマなもん置いていいって言った!?本部の案件!?知ったこっちゃねえ!現場でモノを売ってんのは俺たちだ!」なんて陳腐な刑事ドラマの台詞なようなことを怒鳴り散らしながら、そのポップを蹴っ飛ばしてエスカの階下に葬り去っているロック・フロアのマネージャー。

そのフロア(3Fだったな)で隣接しているロックとクラシックのコーナー、ロックのコーナーのBGMの音が相当にラウドな時、紳士的に「ちょっと音、大きいんじゃない?」とやわらかなクレームを頻繁に入れ続けるクラシックのショップ・マスター。無視されてスゴスゴと紳士的に。。。。

こんな映画、見た事も聞いたことも無い(その当時から自分は相当な映画通であると自負していたにも関わらず)!って驚くような作品のしかもサントラが超充実しているサウンド・トラックのコーナー。実際ここの情報量は映画関係のショップのそれを遥かに凌駕していた。

欧州言語に通じ、もう自分にとっては宇宙的な感覚の向こうにあるような実験音楽、ノイズ、ポスト・ニュー・ウェーヴ音楽を紹介し続けることに無常の歓びを感じているかのごとき、店舗にほど近い本部事業部の闇の帝王のようなレーヴェルのプランナー。その近くにはカルト中のカルトである雑誌『WAVE』の編集者も座っていた。もう日本じゃないよな、ここって感じ。

1階エントランスの企画でムーンライダースのトークショー(自分が入社後なんで、たぶんアルバム『アニマル・インデックス』のリリース記念だった思う)みたいのを企画していた担当者を「こんなもんやって誰が喜ぶんだ!?」って詰る他のフロア担当者。そこに偶然居合わせた自分の「ライダース、最高じゃないですか!見たいです!!」の発言に「ほら!誰だか知らないけどこの若いヤツも言ってるだろ!盛り上がるんだよ!」と主張する企画担当と「誰だお前は!?くだらねえ意見なんか聞いてねえ!」と詰り返す反対チーム。いやいやビビッッたしキマリ悪かったなぁ(苦笑)。3Fの奥にフリア・マネージャーの待機する事務所がありましたね。ちなみにライダースのこの企画,実現してました(笑)。

そんなこんなは、あくまで「自分視点」での極端な例。

最先端文化の屋台骨を支えていたのは、男気溢れた仕事愛と友情、本気のケンカ、そして閉店後の店舗裏手の道を左に下ったところにあった大衆食堂における呑み会であったのだろうか、と今も懐かしく、羨ましく、憧れをもって想い出す。改めて断言しますが、これらは自分が接する事のできていた六本木WAVEの一側面に過ぎません。もっと大きな事、小さな事、また異なる局面でのプランやイベントは展開していたのです。むしろそれこそが世間から解りやすく見えていたWAVEかもって思う事もある。
素晴らしい先輩スタッフ達に本当に憧れてました。で、それが全部、時代までをも巻き込んで全部一体となって転がっていたのが「六本木WAVE」だったと思います。1983年から、たぶん5年くらいの間ですね。栄光のWAVE。愛して止まなかったWAVE。一生忘れないシーンが今もたくさんあるなぁ。そこで働いてたわけじゃあないのに変な感じだ。

さてさて!!
上記した六本木WAVEのロック・フロアの暴れ者のマネージャー、この方との出逢い、ある日届け物を持って訪ねた彼との再会がこの80年代の西武百貨店のお話の後編へと繋がります。90年代、ギリギリ西武がヴィヴィットだった時代への。
1986年のある日、真夏であったと思う。届け物を持って探して訪ねた彼(自分の8歳先輩でした。だから当時、自分は24歳?で、彼は32歳だったのかな?)は、店頭におらず、言われて探しに行ったWAVEの裏の公園のベンチでアイスクリームを食べながら昼食後のひとときを過ごしてました。ためらいつつも声をかけ。
うん、そして今回のお話の新しいチャプターに入る訳ですよ。

あぁ、ちなみにその公園のベンチは前記したガール・フレンドと真冬の切ない想い出を共有した想い出のベンチでもありました(笑)。もう、公園ごと無くなっちゃったけどね。。。。

以下、次号へ続きます。

追記 ー 去る2013年11月28日に逝去された堤清二氏に、私ごときが恐縮ですが心より追悼申し上げます。
偉大な氏の信念が無ければ、私が今も憧れ続けている「文化」が構築される事はありませんでした。



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