Rocker and Hooker

はい、先月号の続きです。 1980年代中頃、実社会における自分の最初のキャリアであった西武百貨店でのお仕事の話です。
前号をご参照いただきたいのですが、とにかく1980年代の西武百貨店が世の中に提議していた独特の文化観の異種/特殊っぷりと言ったらありませんでした。その文化を牽引していた数々の異能の方々とともに、その後の日本に与えた「サブカル」としてのスタンスはまさにその時代の西武百貨店の文化事業によって背骨を作られたと言っても過言ではないでしょう。すなわち「サブカル」を産み出したのではなく、それを「発見」し「再編集/再構築」したという姿勢において西武百貨店のなし得た業績は本当に大きなものだったと思います。

「風俗」や「現象」としてとらえられてしまったが故、その功績として見えにくくなってしまったモノや文化、それこそが1980年代の西武百貨店が遺した偉大なる足跡。それらが時代を一回りし、「新しい文化の在り様のムーヴメント」として近年の代官山蔦屋書店で模倣されたのは記憶に新しい。記名性が放棄された功績(西武のね)故に、あたかも現代のサブカル探索者達にとって新しい潮流として迎えられたあの代官山の提案。悪くはない。凄い労力と努力は感じた。しかし、オリジナルとしての「誇り」は垣間見れなかったというのが自分の本音だ。そう、当時の西武を知る者、そこで展開されていたカルチャーに耽溺していた者達にとって、あれは単なるノスタルジー以上のモノになるはずもなく。ましてや新しい文化提案なんて平気で言っちゃうマスコミに至っては、もう噴飯物なのであった。

前号で、1980年代中盤から終盤に向かう時期の西武百貨店にあった自分のお話をさせていただきました。そう、サブカルが華として時代のある側面を牽引し、そんな日常を謳歌することができた最期の時間。「サブ」が「メイン」を逆転してグイグイと推進力を増しているかのように見えた刺激的な時代。
西武百貨店の本部商品部に在籍していた20代、最期の頃の仕事に新店準備室、及びその企画計画ってのがありました。渋谷のLoFtに始まり、梅田や川崎のLoFt、池袋のWAVE館構想などなどのプランニングとか。ある時はショップの一画の提案だったり、ある時は館自体のコンセプト立案だったり。それはそれで楽しかった。企画書を作るってのは嫌いじゃなかったんだ。あのバブルの最後っ屁の時代では「どのくらいシャープな企画書を、どのくらいの量、どのくらいのタームで書き上げられるか」何てのも若手の自分仕事測量の一基準でもあったりした。そんな様々を遍歴担当していた20代の後半、商品部在籍の自分がそこで最期に担務した業務が池袋LoFt準備室でした。もちろん先月号で書いた通り、当時の自分が所属していたのは商品部の音・映像・電器部なので、本来はその局面としての新店準備室への参加のはずなんだが、ご存知LoFtはあの当時も生活空間のオリジナリティ創案が目的。池袋LoFtの準備室には商品部からの有志セレクト・メンバーみたいな形で参加したんだと思う。音・映像・電器に関わるお店の要素はなかったはずだし。雑貨売り場(当時、LoFtという考え方が成立する前の西武ではそのジャンルは「趣味・雑貨=趣雑」と呼ばれていた)の方々と机を並べて準備室仕事をしていたような気がする。渋谷にSEED館(公園通りのパルコの手前、今も入れ替わりの激しいテナント・ビル、その前身だ)と有楽町西武の二大ハイソ提案拠点があったので、渋谷LoFtから始まって池袋のLoFtの在り方は西武「売り上げNo.1店舗」の池袋店の上層階にあるLoFtっていうのが一大命題だったと思う。渋谷でもない、ましてや梅田でもない。池袋プライドとしてのLoFt。
ワクワクで参加しましたね。商品部を初めて離れての出向参加。でも、これも実はお恥ずかしいお話、自発的なチャレンジじゃなかったのですよ、最初は。
前号の終盤で触れたWAVEの暴れ者の先輩、ここがキモで。彼がWAVEを離れ(実質、問題多数人材として追い出されて来た!)、自分が在籍していた百貨店商品部に転属して、自分と机を並べた事が大きな転記を自分にもたらしてくれたのですよ。


まぁ、ビックリしたんですよ、当時。会社の人事なんてそんなによく解っていない頃、憧れのWAVEでおっかなびっくり敬愛していた先輩がいきなりデスクの隣りに配属されて来たわけです。いやいや、WAVEにおいて音楽愛の全てを成就させようとしていた先輩にしてみると屈辱の人事異動だったんでしょうね。いくら商品部が、ほら前号にも触れたように、一般的には「花形」部署って言われていても、彼にはそんなもの何の意味も無かったんでしょう。「俺みたいなプロを追い出してWAVEは良くなるのか!?」ってのが彼のWAVEへの最期の捨て台詞だった(苦笑)。いやいや、いずれにしても極端で熱血漢の先輩であったのだ。
だからね、当然のこと若かった自分が彼(8歳上だったから、当時自分が27歳、彼が35歳って感じだったのかな)から会社に於ける自分の在り方に関して新たに、そして強烈に啓蒙された部分は大きくって。うん、自分のね、新入社員からの数年間が、彼と同じ部門で机を並べて仕事をするようになって、以前にもまして親しく話をするようになって、結果的に完全否定されちゃったのですよ(苦笑)。お前が今まで携わって、やってきた気になっていた仕事ってのは全て「虚業」だ!と。う〜〜ん、無理ある部分も大きかった指摘だったとは思う。でもね、一方でこの「無理ある指摘」は当時の西武百貨店の「在り様」に対して向けられた警鐘そのものにもとって替わるモノでもあったような気も今ではするんだな。正しい指摘。一個人間の会話ではあったけど、そこには何だか本質的な指摘があったと思う。もちろん自分にとってもね。
「虚業」。
ムダを愛する。ムダを尊重する。そこに新しい価値を見いだす。
何て素晴らしい着想/発想。しかして一方では何て虚しい妄想(笑)??要はそれを信じれるか、愛せるか。
自分は迷い無く信じる事ができました。今もね、それは変わらない。うん、だからね、その後に、池袋LoFtの最上階/西武百貨店池袋店の最上階の12階に存在した80坪強のイベント・スペース=LoFt FORUMで企画の仕事を共にする運命となった件のその先輩とは最期までその価値を共有できていなかったと思う。
実質的な価値観と実績を信じながら、それでも新しい文化に対する強烈な飢餓感を常に露にしていた先輩に対して、自分は実際的な価値観を一切信じていなかった。文化的な信念の拠り所は常に妄想世界の中にしかなかった。そして、一方で新しいムーヴメントに対しては常に醒めていた。「誰かが知っている」モノはもう自分にとっては刺激の無いモノであった。それこそが自分がそこまでに西武百貨店の先輩方々から享受された価値観そのものでもあったのだが。でも、自分は実績無き未熟者であり続けたのだな。。。。

だから、その先輩に導かれて、商品部を飛び出して(異動を直訴して池袋LoFt部へ転属になりました)、LoFt FORUMという新しい概念の企画スペースで仕事をしたってのは本当に運命だったと思う。自分きっかけじゃあ、この決断は出来なかった。「虚業」を「虚威」の中で邁進させるだけの人生に終わっていたかも。皮肉な話だけれど、そこを愛しながらもそこにいることの過ちを悟ってしまったのだね。うん、先輩に感謝です。新しい仕事場で経験した事は現在の自分の血肉の全てになってます。

若気の至りのような、西武百貨店の文化的猛者達への憧れ、そしてその内の一人、最も敬愛していた先輩との思いがけずの共同仕事のスタート。当然の如くの葛藤、軋轢、そして訪れる喧嘩の日々。
27歳から32歳までの5年強従事した池袋LoFt FORUMでの企画屋仕事(今度は実際的な設営や運営も伴う、企画書だけのものではない)は自分に限りない経験と実績、そして最高のネットワークを得る機会を与えてくれました。
業界内で、それは百貨店業界のみならず文化施設運営の業界全般に於いて、常に先端であれ!とされてきた西武百貨店の中で、さらに最先端を極めたい!と欲望をギラギラとさせていた先輩と、世間知らずで自信過剰な20代後半、頭デッカチの自分がタッグを組んで展開したそのイベント・スペースでの企画展開はもうメチャクチャで、それでいて最高でした(笑)。今でもそれは自信あるなぁ。
ほら、池袋の西武百貨店っていえば一方でピュア・アートを極めた西武美術館、先鋭アートを提案するスタジオ200みたいなスペース、そしてその底辺をガッチリとサポートするリブロ・ポートやアール・ヴィヴァンのような書籍文化提案拠点みたいな、「文化施設の極み!」的施設がもうこれでもか!ってくらいに林立しており、またそれぞれの文化の坩堝に世界の常識を覆すような「一家言有り!」なプロのマイスターや巨匠が控えているっていう、もうブルース・リーの映画『死亡の塔』の文化版っていうくらいの強烈な知的修行場所であったわけで。
結果として、西武百貨店が提示していたカルチャーの特徴の一つが既に「サブ・カルチャー」として市民権を得ていたのにも関わらず、西武百貨店のもっていた大いなる文化的「呪い」に絡めとられていた当時の我々が選択したのは、その西武文化の根底にあった姿勢を踏襲し、根底にあった価値観をはき違えた、全く見当違いで、暴力的で、それでいて愛すべき(と自負している)新しい「カウンター・カルチャー」であったのだ。それでも、そこにあった独特の雰囲気は間違いなく自分達のLoFt FORUMから創出された価値観だったと今でも誇れる。うん、だって狂ってたもん、コアとなる信念が(笑)。後にも先にもあんな異常なイベント・スペースなんて無かったと思うよ。

もともと池袋のLoFtに紐づいていたイベント企画スペースだったんで、最初は粛々と、ひっそりとこっそりと異常なイベントを企画していたのですよ、LoFt FORUM。
例えば、最初の頃にこのマガジンでも書いたな、アメリカのカルト・ライヴ・ハウス=フィルモアのウエストとイーストから産まれたサイケデリック・カルチャー、そのポスターの展覧会。そこに併設したコーナーでヘッド・ショップ系グッズの販売。そうそう、そこで初日で売っていた水パイプやラッシュ絡みの商品数々は百貨店の店内規制で速攻撤退を余儀なくさせられたり。LoFtの部長自ら真っ青になって抗議に来た(苦笑)。お客様からクレームでも入ったんだろうな。
店舗から来た撤収要請は他の企画でも山ほどあったなぁ。コレクターズ・アイテムになっていた国産バイクの販売会で、百貨店の上層階ほとんどをガソリン臭で溢れさせてしまってお客様を失神寸前にさせてしまったり。。。。

ヴィンテージ&コレクターズのエレキ・ギターの展示販売会では試奏の音のデカさで百貨店としてはあるまじきランクSのクレームをいただいたり。。。。もちろんクレームだけじゃなくって、小さな、それでいて強固な影響力も発揮しました。
ヴィンテージ・レコードの閲覧/販売企画で、当時アナログLP相場の記録を更新させたりもした。
そうそう、昆虫標本に食虫植物や南洋テイスト溢れる蘭科の植物も展示販売した。植物はアートだと思ったし。それに類する図版も展覧販売したな。本当に細密で美しかった作品群。
ある時は、ロック・カテゴリーで古着をエデイット販売するっていう日本初の企画も提示した。東京や神戸を代表する古着屋さん達も気持ちよく出展してくれて最高に楽しかったな。『ロック・ファッション大百科』ってタイトルのイベントだった!良いタイトルだと思いません(笑)??
百貨店全体が「フランス展」で彩られたときには、LoFt FORUMを使って本部が持ち込んできた企画は『イヴ・モンタン(Yves Montand)』の凡庸な写真展とフランス発の香水ボトルの展示会(これは美しかった!自分が直接関われれば、もっと刺激的に企画できたはずだったのに!と悔いが残った)。いかにも「百貨店のフレンチ企画、チョイ捻りヴァージョン」だ。予定調和の。ちゃんちゃらおかしいぜ、そんな企画!って思って、それに対して自分が提案したのはブリジッド・バルドー(Brigitte Bardot)を柱とした『フレンチ・ロリータ写真展』。1990年初頭に突如出版や企画で勃興したバルドーのリヴァイヴァル人気の火付けは間違いなくその企画でした。


数々の企画を想い出すなぁ。まぁ、そんなだったのですな、今思うと、西武の確固たる佇まいに対して我らのがとった態度と、発揮した意地は(苦笑)。。。。

それでもそんな中で、LoFt FORUMの枠を越えて西武百貨店の大ヒット企画催事/展覧会と世間に評価された企画もあったのですよ(笑)。
今でも他社の追随を許さなかった圧倒的な企画は3つのカルト文化展覧会と、やはり3つの昭和文化企画の二軸かな。そこから派生した事も含め。
解剖図、心霊写真、架空動物をテーマに3年連続して秋口に行った展覧会のコンセプトとプレゼンテーションと世の中に於ける唯我独尊の屹立っぷりは永遠だと今でも思っている。先月号にも記した六本木WAVEのエントランスの展示企画をしていた方、そう!ROCKER AND HOOKERのサイン・ボードを製作してくれた方、今でもおつきあいのある彼の斬新な発想とキュレーションとのコラボであった三つの展覧会は、マスコミの取材の圧倒的な狂騒も含めて圧倒的だったな。



そして「昭和三部作」みたいに括ってたのが3年連続、春に開催した展覧会。最初は横尾忠則さんのデジタク・コルトン・ボックスによる新作展、翌年は寺山修司氏の生涯展、そしてその翌年は、これはもう自分にとっても永遠の企画となった澁澤龍彦御大のオマージュ展である。
特に澁澤御大の展覧会が社会に与えた影響力は計り知れなかったと思う。出版業界はもとより、あのNHK『日曜美術館』までをも巻き込んでしまった。当然、他の多くのメディアの追随っぷりも言うまでも無く。20年くらい前に突如興った澁澤龍彦再評価(実はそれは今にも続く永遠の轍を形成したと思う)のムーヴメント、うん、それも間違いなく我々の展覧会から始まったものだと自負しております。


そんなこんなで、そもそも「斜めから見た」社会的な文化を良しとしてそれを王道の文化に昇華させた西武カルチャーに対し、そのさらなる「斜」を極めようという無謀な動悸で始めた我々の意志も、おそらく時代にチョコッとは「爪跡」くらいは遺せたのだと思うのです。

それもこれも、一つの出逢いと決心から始まり出した旅だったなぁ。
とにかくね、その先輩との濃い濃い数年間が、自分にとっての西武百貨店の想い出と実績の全てをなぞらせてしまうのだな。
二号にわたってしつこく書かせて頂いたお話の最期はそんなセンチな想いに収束してしまう。彼が紹介してくれたリブロ・ポートの素晴らしい書籍文化のプロ達。アール・ヴィヴァンの最高の異端文化を愛好する変態達。そしてもちろんWAVEから派生して行った音楽文化の最高の担い手達。
うん、皆今も各界で活躍する第一人者だってのが嬉しい。それもね、やっぱり品の良い「西武の達人達」的な、人知れずな感じでの第一人者。
西武百貨店の数々の伝説的な施設や店舗だけがほとんど全て、消えてなくなってしまったのだ。もちろん池袋店12階のLoFt FORUMも。自分が変わりゆく西武に見切りを付けて(自分の居場所が無くなってしまったという意味でね)そこを離れたほぼ1年後にLoFt FORUMは取り壊されてしまった。たまにお店の12階を歩いて、天井や床の雰囲気を見ると、まだあのころの名残が残っていて、チョッとホロッとしてしまいます。。。。

何だったんだろうな、あのころの西武百貨店。あのギラギラ感。
素晴らしき牽引者達。魅力に溢れた異端の文化人達。
自分はあの時代の末端に、狂騒のパーティーの最期の頃にほんの数年だけ参加できたのだと思う。バブル経済とか、昭和の遺産とかっていう形骸化した提議付け以前、ともかく色彩としてギラギラ、匂いとしてクンクン、現象としてワクワクの、あの瞬間に。あの時代にしか成り立ち得なかった西武百貨店に。

うん、創り直せたら良いなって。もう一度、小規模でも良いから。
あの「雰囲気」を忘れられない人々に対して、一瞬でもいいから、「あれッ!?この匂いって!?!?」って振り返る時間を喚起するような文化提案。
小さくても良いんだ。自分が想い出や、今の日々の時間を投影するのに充分な懐の深さを感じられれば。
それが実現すれば、ゆっくりとだけれど、皆も戻って来るよね、きっと。唐突な例えだけれど、映画『フィールド・オブ・ドリームス(Field Of Dreams)』の感覚に近いかな、文化の主旨は違えど。そこに創れば、彼等はきっとやってくる!みたいな。信じなくなったら、終わりだぜ!的な感じ??

だから、もう一度、形は違えどやってみようと思います、渋谷のTOKYO QUADRO MARKETで。
あそこの周りには充分な才能と因子は揃っているからね。妙なヤツらが外からもどんどん集まって来るからね。
あと、もちろん不可欠!自分みたいなバカもね。

信じてみよう。
信じてみて下さい!もう一度、「文化」を遊ぼうよ。

追記 ― 改めて今回の2号にわたる雑記を、本文中に何度も登場した敬愛する先輩に捧げます。2011年2月に永眠した先輩、あなたと出逢わなかったら今の私はありませんでした。


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