Rocker and Hooker

ロンドン五輪、いろいろありましたね。ってもう古いか!?2ヶ月前??
いやどこかで、ロンドン/英国のポップ・カルチャーがこんなに自分の文化/音楽史を支配していた事を痛感させてくれた五輪開会式/閉会式のセレモニー、そこで導入された音楽のことを書こうと思ってたんだけど、何かタイミングが悪くって。デヴィッド・ボウイ(David Bowie)寄りのネタで先月もチョコッとは触れてたんだけれど、オリンピック周辺について諸々書き損なって早、これを書いているのは9月下旬。。。。
もう今更ここでポール・マッカトニー(Paul MacCartney)のこともキンクス(The Kinks)のこともマッドネス(Madness)のことも、ましてやフー(The Who)の事も語るまい。掘り下げまい。みんな今年の真夏の夜(まさに!ね)のステキで遠い夢だ。


それにしても凄かったね、英国ポップ・カルチャー。
自分が青春期において影響を受けまくったものの全てがあったような気分にさせてくれたセレモニーの素晴らしき内容。音楽、映画、ファッション、アート、云々。全てだよ。自分の感性はそれらに育てられたんだなって再認識。



大好きなダニー・ボイル(Danny Boyle)が演出したセレモニーも最高だった。映画監督として映像作家として、彼の作品はどれも心に深く根ざす感動を以て今も自分を支配しているんです。
『トレインスポッティング (Trainspotting /1996年)』の衝撃に始まり、実は個人的に彼の作品中では一番好き!かつ永遠のツボの『28日後... (28 Days Later... /2002年)』ときて、『スラムドッグ$ミリオネア(Slumdog Millionaire /2008)』の変化球、トドメは好き嫌いのハッキリ別れる(またしても自分は超好き!)『127時間 (127 Hours /2010)』とくる代表作遍歴。彼の演出を衛星中継とは言え生で体感出来るこの幸せよ!って感じでしたな。


彼が演出した開会式セレモニー、とにかく素晴らしく、ポール・マッカトニーの世界的な〈余談/エピソード〉を産み出す程の話題性の中にあって、個人的はお恥ずかしながら、何といっても音楽BGM演出でジャム(The Jam)の英国に於ける初のチャートNo.1シングルとなった『ゴーイング・アンダーグラウンド(Going Underground/1980年)』が使われていた事に、眠気も吹っ飛ぶ程にシビれました。嬉しい。やっぱジャムって英国では今も昔もアリなんだよなぁって。Mr.ボイル、ジャムはお好きでしょうか??


で、まあ、語るまいとはどっかで思いつつ、やっぱり閉会式のフーですよ(笑)。
いや、ほら、今更!?って感じ、ヒシヒシじゃあないですか。うん、でも自分はその中でも特殊な解釈もご提案できるかもってことで。
フーについて、その長い長い活動の、ほんの一時期にスポットを当てて、今月は書かせて頂きたいな、と。

フー。The Whoというバンド。
簡単に、乱暴に音楽的な歴史を辿ると。。。。
あのビートルズ(The Beatles)を睥睨しながら1960年代のブリット・ポップ創世記を支え、おそらくロック史上最初にハッキリとした形でアルバム全編に於けるコンセプト・ストーリー作品(世間では「ロック・オペラ」と言われました)である『トミー(Tommy/1969年)』を発表。その後、伝説の「ウッドストック・フェスティヴァル(Woodstock Music and Art Festival/1969年8月15日〜18日午前にかけての4日間)」で観せた(魅せた!)驚異的なパフォーマンスで新しいロック・カルチャーの寵児となり次いで発表した『フーズ・ネクスト(Who's Next/1971年)』のスタイルをもって、その後の英国アーティスト達が全米も含めた全世界のロック・マーケットを席巻するための教科書とも言えるべき音楽スタイルを確立。所謂〈スタジアム・ロック〉という定義。それはすなわち、デカい16ビートを感じさせる8ビートなロック感覚とでも表現すれば良いのかな?ン!?ちょっと解りにくい?じゃあ例えば、オアシス(Oasis)とブラー(Blur)の音楽を思い出して。前者が、ここで言及している時期のフーのビートの後継者。とにかくデカいビート。後者は、そうだね前出のキンクスや、個人的には大好きなジャムのようなタイプのバンド後継者だね。後者が訴求した、カッコ良いんだけど性急な8ビート?アメリカ(すなわちロック謳歌の大国)を始めとする全世界のメガ・ロック・マーケットで成功する為にはとにかくこのメソッド/定義、言ってしまえばタイム/ビート感は通用しなかった。でも一方で、前者の〈デカイ〉ビート、すなわち〈スタジアム・ロック〉に成長する感覚は特殊、かつ、重要かつ、マストだったと思うんだよね、〈そこ〉で成功するためにはさ。
フーはその2つの定義を前にして、体現して、ある種の結論を導き出したバンドとして、ロック史で永遠に語り継がれるべきバンドなんだよ。
もちろん作品で表現されている世界感の素晴らしさもあるのだけれどもね。
最高の、それでいて古びない、マス・イメージにおける典型的な〈ロック〉を体感させてくれたバンドの最初がフーなのかな。


メンバーからはリズム隊の重要な二人、天才/奇才ドラマー=キース・ムーン(Keith Moon)をとうに亡くし(1978年没)、近年にもバカテク・ファンキー・パンキー・ベーシスト=ジョン・エントウィッスル(John Entwistle)をも失っている(2002年没)けれども、2008年の日本公演でも最高のサポートをしてくれたドラマーのザック・スターキー(Zak Starkey/言うまでも無い、オアシスなんかでもお馴染み、ビートルズのドラマー=リンゴ・スター:Ringo Strarrのご子息)ならによる最高のバック・アップで、この大舞台=ロンドン五輪閉会式、今回もお約束通りの、お祭りパフォーマンスを披露してくれたわけです。


フーの作品の話に戻ります。初期のビート・バンド的なポップ感覚も、後期(一応、オリジナル・メンバーでの活動期であった70年代後半とさせて下さい)のラウドなスタジアム・バンドっぽさも大好きですが、ロック愛聴歴40年、今年50歳になった自分にとって今でも重要な彼等の作品は、前記した『トミー』と『四重人格(Quadrophenia/1973年)』、この2作の所謂ロック・オペラ作品であります。
初期のテイストを残しつつデカいビート感に変わりつつある過渡期に発表された歴史的名作『トミー』に、2つのデカいフェスを通しての〈ラウド・イヤーズ〉を経た先で発表された『四重人格』。でも、実際はここで表現され、訴求されているのはいずれも痛々しいばかりの〈自分探し〉と、その果てにポッカリと開いた穴の中で叫ばれる〈絶望感〉である。決して今の〈メガ・ロック〉的な便利な共同幻想を謳ってはいないのだ。
そこが重要なのかな。
何を、彼等と、その作品と〈共有〉したのかってこと?
その〈何か〉が古びたり、日和ったりしないから、今でも燦然として凄いのかな。
まあ、作品内容については、今は便利な時代なんで、拙文にてくどくどここで語らずとも、作品の内容についての詳しい事はWikiで調べられます。ぜひとも。
うん、内容と作品の根底に流れるストーリーを把握して頂く事は、実は重要だな。

〈自分探し〉の衝撃ってなんだろう?
個人がそれを行う必要に辿り着いてしまうとき。それはすなわち〈自分提議〉に向けた、一種の再生の過程なのかも知れないと思います。
フーの上記2作品における象徴的テーゼ、そしてとりわけ『トミー』における『See me,feel me ,touch me,heal me』というテーゼ。作品中、いや、伝説のウッドストック公演、ワイト島公演でも何度も去来するテーマと楽曲。当時のフーにとってこの感覚がいかに重要な〈十字架〉として、個人に(たぶん楽曲全てを担っていたピート・タウンシェンド:Pete Townshend)、バンドに科せられていたのかに想いが馳せられる。そして、やがて訪れた世界的な大きな成功と、その結果バンドが選択せざるを得なかったスタイルの変貌を遂げて、前記テーゼは受け止められた先で、別の形の〈叫び〉として浮上することになる。それがたぶん『四重人格』の中での『Real Me』であると思う。
成功も、そこで得た大きな評価も、おそらく富すらも、バンドの本質にあるトラウマを癒す事はなかったのだ。

そして結果として、バンドとしてのフーは、ここまでだったのだと思う。
この時点での燃えカスとしての傑作『フー・アー・ユー(Who are you/1978年)』をリリースして、実質的にバンドは終わるのだ。キース・ムーンの悲劇もここで起こっている。


何だかオリンピックをきっかけに、久々にフーのことを真剣に考えてしまった。
いやいや、そのフーを観ていて、聴いていて、いろんな事を考えてしまったのだって話ですな。
前記したそのロック・オペラ大作2作品は間違いなく〈青春の蹉跌〉2大作品なのである。全ての傷付きやすい若き野郎共が経験するような。すなわち、心あるものにとっての哲学、その〈志〉に光や影をあてるような。答えはいつもそこにあるっていう感じ?

うん、ここでROCKER AND HOOKERのデザイナーとしての中野恵介、改めて。彼の〈Real me〉すなわち本当の自分とは?
彼の問いかけ、「本当の自分が見えているかい?」って。

去ってしまったこの夏、中野の感覚と技術をもって、様々な企画商品をお店は送り出して来ました。もちろん、お好きな方々には大好評、そして時には中野の狙いとは別のところでの思わぬ高評価、時に作品/商品への無反応に対する戸惑いも。
で、結果、秋を前にして中野が辿り着いた先の選択肢は、思いがけずシンプルなものだった。
自分が求めているものを自分のやりたい形で表現したい。自分が必要としているものを自分なりのスタイルで表現してみたい。
すなわち、自分が〈使用〉するものを、自分なりの最高の〈デザイン〉で表現するってことなのかな?


もう、それしか、やりたくないし、そこにしか、意味を、見いだせない。
これは、デザイナーとして、アーティストとしての宣言ととりました。


こう言うとちょっと自分としては中野を褒め過ぎなんだけど、フーにおける『トミー』〜『フーズ・ネクスト』〜『四重人格』と流れる作品発表の歴史、モチベーションに、この感覚、ちょっとカブるんだよね。。。。


シビアな解析ばっかりでなく、最後に、具体的な〈カタチ〉のことも書いておかなきゃ。
中野が提案して来た、彼の原点回帰的なブーツのリメイク、スニーカーのリプロダクツ。その〈在り様〉、まさに前段に書いたことを語っています。
〈欲しいモノ/必要なモノ〉を作りましたっていう当たり前の原点。これは、やっぱり、当然のことながら、、、、こちらの心をガシッと掴む出来なのである。
「スンマセン!やっぱ、俺、ここです!」と思いがけない宣言を突きつけられたような、ちょっとした驚きと喜び。うん、この冬、彼とお店がどんなことを企んでいくべきか、再度、真剣な討議に向き合って行かなくてはならないな。望むところだけどね(笑)!


それにしても、フーの名作と黄金期の何年かとを比較したり、ちょっと今月は中野を上げ過ぎたかもなぁ。。。。


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